選評で読む若さ メモ

「14歳(15歳)であるにもかかわらず、受賞に値する」
とは高橋源一郎三並夏平成マシンガンズ」へなした選評の一節で、作品の評価に年齢は関係ないとしながら、もちろん田中康夫が言う「年齢に殊更に拘泥するであろう表現者*1」をはじめとした「読者」への苦言なり配慮なりなのだろうが、年齢について触れざるをえないジレンマ。
きっかけを持つ(待つ)登校拒否、登校拒否自体もきっかけで、そこからの復帰の意思。題材とかテーマは真っ当も真っ当な「平成マシンガンズ」、悪く言えば陳腐な出来事のはずなのにどうして面白く読めるのだろう。
感想は後日なのよね。


試みに、綿矢りさ文藝賞をとったときと、三並夏が受賞した今回の選評を並べてみる。堀田あけみのときの選評も。
作者の若さについて触れられた部分だけ。
臭いのほとんど異なるこの三者への選評を並べたところで作品の比較はできようもないけど、若さに焦点をあてられた「少女」たち、若さ若さ、その若さはどう見られているのか、見られていないのか、見てみぬ振りされているのか。選評を読んでみる必要は小さくない。もちろん選評だけで断言はできんけど。文庫化記念でもあるしー。
引用は綿矢→『文藝』2001年冬号、三並→『文藝』2005年冬号、堀田→『文藝』1981年12月号、ほか引用元は適時示す。


綿矢りさ。昭和59年、1984年早生まれ。受賞当時は17歳。

(……)また文学のデビュー作には常にどん詰まり感、すなわち「このスタイルと題材でもういっぱいいっぱい」みたいな感じがつきまとうものだが、何故か綿矢りさにはそれがない。まったく異なるタイプの作品をも自在に発想していけるのではないか。文字通り「期待大」だ。
石川忠司

(……)目のつけどころが良く、面白いストーリーを作る技があると思ったが、それでも、最初の部分にみられる、あの得体の知れなさ、フィルターを通さない奇妙な言葉の混合をいつまでも忘れないでいてほしい。
多和田葉子

(……)だが、ラスト近くでおもむろに顔を出す「生身の人間達に沢山会って、その人達を大切にしたいと思った」という無責任ともいえる明朗さに、小説に対する偏狭なナメ方を、こちらは見て取るのだ。それを若さとして羨望し、安心し、また、膝の力を抜かれるのもいいか、とも思うが、作者が「ルーズソックス」を脱いでも書くのであるならば、いや、書いて欲しいのだが、何か作品全体にある器用さに寂寥感を覚えた選考者の不平も理解するべきだ。
藤沢周

(……)
主人公の女子高生はインターネットで風俗チャットのバイトをする。そう聞くだけだったら、まさに現代の風俗に染まった小説を想像するだろうが、読んでいると「これは現代風俗まみれになるかも」とは決して思わない。では、それ以外の選択肢にはどういうものがあるのか? となると作者ではない読者は案外何も浮かんでこないもので、現代風俗まみれにならない展開はすべて予想外ということになる。しかし同時に、読者には基調音として「現代風俗まみれにはならない」という確信がすでにできあがっているから安定感がある、ということだろうか。途中でそういう確信を読者に抱かせるということは、作者の方針がはっきりしているということでもあるのだと思う。
保坂和志


三並夏。平成2年、1990年生まれ。受賞時14歳。

(……)しかしこの小説には他にはない力強さがある。自分の持っている言葉より、もっと多くに手を伸ばしている心意気がある。(……)手を伸ばしてつかんだ言葉を自分のものにすること。学校以外の、人、という存在をよく見ること。それが作者の今後の課題だと思う。
角田光代

(……)物語が家庭の中に及ぶと急にウソ臭くなる。まだ中学生だし、来年再挑戦してもらったら、とも思いました。でも、そういう問題じゃないんだよね。中学生の今だからこれは書けた小説で、マシンガンをぶっ放す死神のイメージには普遍性がある。この人は意外な大物かもしれません。十五歳という年齢で選ばれたのではない、ということは強調しておきましょう。
青山さんも三並さんも「お話」を作ろうとして失敗しています。特に大人を書くのは無理があるよね。しかし、何もかも等身大をよしとする文化の中では、背伸びもまた未来への道。それが可能性ということです。
斉藤美奈子

(「文学賞の受賞者の低年齢化」に見える主催者側の「話題作り」を問題視。当作品については「14歳(15歳)であるにもかかわらず、受賞に値する」という評価をして、)
平成マシンガンズ」の魅力は、ひとことでいうなら、言葉によって世界と対峙しようとする、その凛とした「姿勢」の美しさにある(だから説明しにくい)。頼るべきはストーリーでも、キャラクターの魅力でも、テーマでもない。言葉の世界をもがきつつ進む、その歩き方だ。それ故、時にふらつき、時に勘違いもある。いいじゃないか、そんな細かいこと。大切なのは、ある場所に向かって歩き続けることなのだ。
受賞によって、大きく、冷たい(でも一見好意的な)「現実」の世界の壁が、作者の前に立ちふさがることになるかもしれない。三並さん、それからだよ、ほんとうの戦いが始まるのは。そして、その時こそ、きみは「言葉のマシンガン」を必要とするのだと思う。
高橋源一郎

平成マシンガンズ」を物した三並夏さんの、年齢に殊更に拘泥するであろう表現者も又、表層的“覗き見”発想から脱却し得ぬ、可哀想な人々だ。偶さか中学生だったに過ぎぬ。流麗なる文章の魅力は、鍛錬を積めば誰もが到達し得る領域を超越している。
田中康夫


堀田あけみ。昭和39年、1964年生まれ。受賞時17歳。

「1980 アイコ 十六歳」は笑いが文中からはじけ出ているようであった。方言の会話が、内部からの自然な的確さでとらえられていて快かった。女子高生たちの日常のひなたくさいすこやかさ。十七歳の少女作者に、さまざまの要素が幸運にもうまく一時点で出会ってその世界が等身大に描出できたのだろう。不思議な当世だ。この作品の持つ一種の勢いには途中の少女たちのやかましいおしゃべりも甘さも寸足らずも笑い流せる気持ちになれた。律動的なユーモア小説だと思った。
島尾敏雄

つまりここでは、人間はいかに生存するかもいかに死ぬかも考えることなく、只生存し、生存し続けているのである。(……)
(……)名古屋弁を駆使したところが面白いとか、校内暴力が描けているとかいうような推賞の辞が、他の三委員から交々に贈られたことについて、ここに繰り返さない。私はその大部分を認めた上で、この作品を基本的に通俗的な作品と判断し、社会的責任能力のない十七歳の少女に文藝賞を授けることについて、否定的意見を翻すことができなかったのである。
江藤淳

世代(年代)の特徴
こんどどういうわけか、私はマスコミのインタビューを受けた。堀田さんが高校生ということで、珍らしかったのである。そのとき、話題になるような作品をはじめからねらっているのではないか、ときかれた。一般の風潮からしてまったくネラわないといえばウソになるかもしれないが、「文藝」の場合は、想像以上にそういう気配はない。昨年もそうだが、今年もそうだ。(……)
「1980 アイコ 十六誌亜」は、現在十七歳、高校二年の少女の書いたもので、私は、十六歳の少女の夏から冬にかけての成長の足どりを書いたものというふうにとった。
(……)優等生的におさまって行くのが、物足らないという感想もでてくるかもしれないが、さっきもいったように成長して行く姿を書こうというところが最初からある。その態度がこの作品を新鮮にしている理由の一つでもある。会話のやりとりの面白さ、一貫したユーモア、健康な感受性、自在な機智を買わないわけにはいかない。私は今の女子高校生がいかにもよく書かれていると思う。
(……)
それぞれの世代(年代)の特徴が出ていて、勉強になった。
小島信夫

(……)たしかに十六歳の言葉をもって出されていて、工夫されざる工夫がある。(……)この作者の用いている言語は、つねに裏側からも読めるものなのである。この作品を書いて発表したからには、如何なるものが現れようと軽く受けとめ、陽気で、しかも烈しい自己解放と陰のある闇の中の自己氷結の間を往復して強烈に生きてほしいものだなと思う。
野間宏

ローカルで自分用に選評をアーカイブしてるんだけど、語句で抽出するとたまに楽しい。
リリー・フランキー特集号のときの保坂×綿矢のインタビューを久しぶりに見た。地味さと可愛さの幸せなめぐり合い。ああ、そういえばここがいまのメジャーアイドル界には空いているだな。石原さとみや黒川芽衣の地味さや野暮ったさとは違う可愛さ。
メモとしての、見えない敵にマシンガンをぶっ放せ、シスターアンドブラザー。

*1:ルビ「マスメディア」 引用は『文藝』2005年冬号より