ちょっと編集

12時を前にして早くも文章量が異常になってきたので、今日の分の文章で即時性の薄いものを過去の日付に移転することにしました。はてなダイアリーって、文章量が増えすぎるとキーワードが正常に機能しなくなるっぽいんで。
とりあえず日本文学の定義を考えてみる企画の「日本文学って何ですか?」を[id:siken:20040113]に移転。
…と、移転させた上の文章に対しての言及がされました。
http://www.yhlee.org/diary/?date=20040118#p02
そうです、私の書き方がまずかった…。(まず)日本語で書き(構想し)、日本語で書かれた(出版された)、という意味合いですね。ドストエフスキーが自ら日本語訳してたら今ごろ日本文学としてドストエフスキーは語られたのだろうか。あくまで印象だけだけど、語られない気がするんだよなぁ。うーん。でもドナルド・キーンの随筆は日本文学研究家の畑だしなぁ。ちゃんと最後の文章でも言及したんだけど、「8 非日本人が日本語以外で書き日本語以外で出版された作品」の中でもばらつきがでるような。そうですねぇ、在日韓国人在日朝鮮人のみならず在日アメリカ人や在日ドイツ人といった方々をどのように位置付けるかということは考えておかねばなりませんでした。私が仮定した「日本人」の定義もそこがすっかり手落ちでしたね。日本語を母国語としない日本国籍人と、日本語を母国語とする非日本国籍の方々では、後者の方が文学的には「日本人」という印象を受けます。つまり日本文学に近いのは後者…、しかしそれであっても前者も日本語作品を書いたら日本文学としてくくられてしまう気がします。
あ、この考察(といえないくらいちゃちいとお叱りのメール1通)は、「日本文学」の現在の領土について考えてみようという企画であって、超時代的な日本文学の定義を求めようという意図はございません。いま、「日本文学」がどう扱われているのか。
「日本文学」畑の意識と、一般読者側の意識もずれは結構あるだろう。
安易に「日本人」っていう言葉を考えたくないんですよ。日本人って何? ということ、「日本国籍をもつ」なんてそんな法律上の定義じゃなくて、あくまで言葉としての概念はやすやすと定義されうるものじゃない。確かに言葉そのものは完全に定義されうるものではなく、それを使う状況によって定義されるものでしょうから。
まぁ私も安易に「日本人」って言う言葉を使うんですが、その場合在日朝鮮人在日韓国人の人たちは「日本人」にくくる。友人も多いし、彼ら彼女らには日本人としてしか接することができない。国籍云々とか民族云々とか普段意識なんかしねぇしなぁ。でも、在日西洋人は即頭に浮かぶっていうわけじゃない。これが在日西洋人に対する差別かどうかはわかりませんが。
「日本人」という概念に対しての程度の解答がだせないと「日本文学」というものへの解答も出せないだろう。でも私が考察するのは現在の「日本文学」の範疇だ。しかしその問題をほっとくこともできんのよね。
「日本人」って何なんでしょうね。