綿矢りさは誰と比較すると面白いんだろう

とりあえず、綿矢りさが『インストール』で文藝新人賞受賞した「文藝」とその次の季節、チャット対談とやらをしてる「文藝」、そして平野啓一郎が『日蝕』で芥川賞をとったときの選評「文藝春秋」、若手作家紹介みたいな企画をしてた2年位前の文芸誌いくつかを入手。
そして村上龍村上春樹、ついでに「最後の日本文学」として語られてしまう中上健次が受賞した時のさまざまなコメントを入手。江藤淳もきついことかいてるな。とりあえず1970年あたりのアイドル的人気、そして石原慎太郎大江健三郎が出てきた時のアイドル的人気はわけが違う。もちろん、平野や綿矢とも違うのは間違いない。読者論だから時代背景も云々しなきゃならんでカルチュラル・スタディーズとやらに片足、いや両足突っ込みかねない。カルスタって。ハッ。って。
若手が騒がれたことはこれ以外にもあったけど、アイドル的人気といったらやっぱこの3層がでかいと思う。もちろん、中上健次は文壇のアイドルであって、村上龍村上春樹は一般読者のアイドルだし、平野啓一郎綿矢りさのアイドルっぷりも相当異なる。アイドルにも女優系やグラビア系、妹系とか清純派とか正統派とかわけわからん分類が何気にされてるように、かれら「文学」のアイドルたちも属性は大きく幅を持つ。東京アリスだかなんだかのグラビアが雑誌で幅を利かせてて、どうしてなんだと不思議でならない。中森明夫がプロデュースってだけでここまで取り上げられるか。コンセプチュアルなんて、そんなの「妹」の一文字でぶっ飛ばせるだろうに。比較的可愛くも無い女の子3人集まっただけの写真集(写真集と中森明夫が位置付けてるかどうかは不明)が書泉ブックマート平積みでひときわ減っていることを見ると売れてるんだろう、俺にはわかんね、でもわかんなきゃいけないこのスタンス。それと似たように私は平野啓一郎の小説が大して好きじゃない。でもその受容については興味が尽きない。だから読まれる『日蝕』だの『一月物語』は不幸なのか、まー、そんなことはないのであって。
アイドル的人気とアイドルの人気の質が違うのはあったりまえだ。アイドル的人気ってのはその本職以外の要素で本職も売れるみたいなニュアンスが強い、というかそこだ。でもそのなかでもここまで「アイドル」的に売れたのは綿矢りさが初めてだろう。つまり文学云々じゃなく、本気の「ハァハァ」の言葉でもって語られるアイドル的人気。文学抜きで個人に人気が出てしまう、そこから2次的派生で彼女の『インストール』なり『蹴りたい背中』なりに連結するわけだ。当然ながら彼女の人気は作家という肩書きがあるからこそ語られる。だけど「ハァハァ」言ってるうちは作家ってのが欠落するわけなんじゃないか。でも彼らは読者なのか? 作者の読者であって、作品の読者じゃないのかもしれない。