モノとしての写真集

数年前引越しをする時に、家具も少ない一人暮らしだから軽トラックでいいやと頼んでみたら、どうやらギリギリの重量だったらしい。高速も登坂車線ばっかりじわじわと上る始末。
犯人ははっきりしていて、捨てることのできない本たち、特に写真集だった。
久志麻理奈上野未来の写真集は内容まではっきり覚えているのだけども、内藤陽子『SWEET AND BITTER』や加藤明日美『ASMIC 17』あたりになるとどこで買ったのかさえ危うい。
小説やマンガ、エロ本に比べて、写真集は読み返すことが少ないジャンルだろう。お気に入りのものは何度もそりゃ読み返すが、さっと軽く手にとって読み返す、とはいかない。トイレに持ち込んだり食事の最中だったり通勤電車の中だったり、と言うのは難易度が高い。以前買った写真集を中央線の中で立ち読みしていたら、周りが空いて快適な思いをしたことがある。
おそらく二度と読まないだろう写真集であっても手放さないのは、何よりまず安くはない値段と、モノとしての存在感だと思う。でかすぎ。米倉涼子『TOUGH』や城山美帆『十九歳の夏』が既に本棚のホコリ避けカーテンを突き破り、後藤真希スペシャル版はダンボールもろとも押入れ上段に防虫防カビ剤とともに安置されていて空しい。
見栄、というより何となく本棚に並べてしまいそうでなくとも捨てられないそして勿論読み返すどころか読んですらいない哲学・思想の本たちと同じような、三月堂の茶屋に寝転んで般若湯煮しめを喰い読みひと夏かけてもまだマドレーヌの匂いを嗅いでいる小説たちと同じような、重たい存在感を持って押入れの本棚に平積みされている写真集たち。
再び引越しの季節が来る時に、この子たちをどうしてやればいいのだろう。宅配便で送る金も無い。アコムかな。それともブックオフに帰ってもらうのか。一度は想いを込めた写真集たちを手放すのは辛い。
そういえば、多分絶対に見返さないVHSテープの山を思い切って捨てたときも切なかった。こいつらも内容云々というよりも、モノとしての存在感が大きかった。家具や服を捨てるときには何とも感じないモノとしての存在感、写真集はそれが大きすぎる。