釣りの解釈に関するメモライズ

「釣り」はどう成立するのか。筆者が釣りと宣言すればいいのか、宣言無くとも読者が釣りと解釈すれば釣りなのか。「釣り」と「本気」は二者択一ではないのかもしれない。
以下、とりとめもないメモライズ



「釣り」はテキストそのものに成立するものではなく、解釈の中で生まれるものなんじゃなかろうか。

「A」というテキストに対して、「釣り」という軸に対するレスポンスをパターン割してみた。

  1. 「A」を釣りであると認識して、釣られない。
  2. 「A」を釣りであると認識して、あえて釣られる。
  3. 「A」を釣りであると認識できず、釣られる。

「1」の場合は、「釣り」そのものに関する言及がなされるメタなレスポンスが行われる事例が多く感じる。
「2」と「3」の場合が問題で、どちらも表向きは釣られているので区別はつかない。しかし「3」の場合は、「A」が作者により釣りである言及がなされなかった場合には、釣りかどうかの価値判断自体がなされず、「釣り」が成立することはない。
「A」が釣りなのかどうなのか、ということには実は読者は確信を持てないことも多い。「A」公開の事前に釣りであることをほのめかしていたり、「A」そのものに縦書きのように釣りである自己言及が潜められている場合は「A」が釣りであることは明らかであろう。
わかりづらいのは事後に、後続テキスト「A″」にて「釣り」であることが表明された場合である。釣りの後付けという可能性もあり、信用できない作者の事例にはまり込む。
釣りかどうか、という明確な解答があるわけではなく、解釈により釣りにでもなれば本気にでもなれるはずだ。
さらに「2」の事例は複雑になり、「A」の読者「2」が「あえて釣られる」という言わば「釣り」の連鎖となっており、「2」に関しての対応も同様に「釣り」かどうかという解釈にはまりこんでいく、多段釣り。

「釣り」とその一次レスポンスのパターン

ア.作者「a」が釣りを表明している/していない
イ.「a」によるテキスト「A」が釣りを表明している/していない
ウ.読者「b」が「A」を釣りだと認識している/していない
エ.「b」のレスポンス「B」が「A」を釣りだと表明している/していない
当然ながら「A」=「a」ではない。「B」=「b」でもない。
釣りかどうかは「a」や「A」の自己言及(厳密に言えば「a」による「A」への言及、「A」による「A」への言及)の如何に関わらず、読者「b」の解釈に拠る。
「a」や「A」が「A」を「釣り」だと表明していれば「b」が「A」を釣りだと認識する割合は高まるだろう。
さらにその二次レスポンスのパターンとして想定されるのは、

  1. 「B」が「A」を釣りだと表明したことに対して、「A」の後続テキスト「A’」が「釣れた釣れた」と釣り表明を行ったが、実は「b」は「A」を釣りだと認識していて、「逆釣り」が成立してしまったという解釈
  2. 「A」が実は釣りではなく、釣りだと認識していた「b」が「B」及び、「A’」へのレスポンス「B’」においても「釣り」だと表明しつづけて、つまり読者により「釣り」が生成されてしまう事例
  3. 「A」も「B」も釣りかどうかの信用は無く、釣りかどうかはメタ読者「c」(「A」と「B」の流れを見た読者)の解釈に拠り認識される。つまり釣りとは確定的な事実を示すわけではなく、あくまで解釈に過ぎないのではないかという仮説。

匿名メディアでは「A」と「A’」が同じ作者ではない「a」≠「a'」場合もあり、多段釣りは一層混迷し、いったい何が事実なのか真実なのかの証明が困難になる。読者はある程度の情報を元に解釈という価値判断を下さなければならない、とりあえず保留、という判断を含めて。

釣られたレスポンスの価値は?

釣りテキストに対して本気で答えた(釣られた)レスポンスは、釣られたからといって卑下されるものでも無価値なものになるわけでもなく、それでもある価値は持ちうるものである、と思うの。
その釣りテキストが読者に「釣り」と認識されずに本気のレスポンスを返されたとき、そのテキストには「釣り」と「本気」の評価はそれぞれ存在しうる。この二つは特定のテキストにおいて二者択一で存在するものではない、と思うの。

釣りを宣言されたテキストと解釈する読者

たとえば、以下のような流れを想定する。
あるものごとを痛烈に批判するテキスト「A」が発表されたが、あまりの稚拙さに即座にコテンパンに立ち直れないぐらいに反論され、作者「a」が涙目で発表した「釣りでした」という釣りの後付け宣言「A’」。
これを読んだ読者「b」さんは、「釣り」だという「A’」を信用して、「A」を「釣り」だと解釈しました。
一方で、涙目の作者「a」は当然ながら本気で書いた「A」を「釣り」だとは解釈していない。
(つまり「A’」は信用できないテキスト、「a」は信用できない作者と解釈されうる)
釣りは解釈であるという考えです。
まあ、実際に「a」の本当の本当の「真意」は分からない。
「A」が本当に釣りではなかったのか、本当に釣りだったのかは、作者「a」以外には厳密には断定できない。
(もしかしたら「a」にも「A」がマジなのかネタなのかは断定できないのかもしれない)

釣りを通した解釈とリテラシー

テキスト「A」が釣りかどうかを「見抜く」のは、リテラシーとは関係の無い解釈の範疇ではないのかなあ。
リテラシーという概念の定義が曖昧なのもあるけれど、釣りテキストの読解に絞るならば、これまでに挙げたように「釣り」が正解であるとの確証は成立しえず、単にテキストに対して批判的に、より言えば疑心暗鬼に接することがリテラシーなのかいなホイホイともなりかねない。リテラシーも解釈の一状態を示すのに過ぎないんだろうか。
明らかに事前より「釣り」であることを仕込まれたテキスト(縦読みアナグラムなどの異テキストが入れ込まれている場合や、別メディアでの予告が行われていた場合など)においても、んじゃあその仕掛けを暴ききることがリテラシーであるわけではなく、厳密には真実の釣りであるかは「信用できない」宿命がテキストには纏わりつく。
とはいえ「解釈は人それぞれなんだからねっ!」だとか「真実なんて読者には断定できないんだもんッ!」だとか、特にコミュニケーションへ向かう場合には、そんな態度は妥当ではないと思う。
からしさを求める姿勢、100%の正解はなくともそれを目指す姿勢は、コミュニケーションを目的に置くならば肝要なはずだ。
その姿勢に基づく解釈の方針をリテラシーという言葉で補強するのはありなのかな。
という夢を見た。

釣り作者の「本当の」意図は

あるテキスト「A」について、これが本気(マジ)なのか釣り(ネタ)なのかは、読者の解釈の過程に現れる。という話を書いてきました。
「A」について、作者「a」が、「このテキストは嘘だよ。私の真意ではないネタにすぎないよ。釣りだよ〜」と、テキスト発表後に表明したとしても、それが後付けの言い訳なのか、本当に釣りだったのかは、断定することはできない。
同様に、事前に他メディアで釣り予告をしていたとしても、その予告自体を信用するのか、果たして予告は予防線で、釣りテキストに見せかけたホンネの可能性もあり、確実には作者は信用できない。
もしかしたら、作者自身もテキスト「A」が本気なのか釣りなのか曖昧な場合もあるだろうし、執筆時点では本気のつもりでも、レスポンスを受けて「釣りということにする」場合もあるだろう。

参考釣り
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090312233645
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090314144612
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090315012454