笑わせようという意思

例えば筒井康隆とか町田康とかには読者を笑わかしてやろうという意思を見て取ることができるけど、太宰治はまだしも志賀直哉三島由紀夫が読者を笑わかそうと思って小説書いていたとは思えない。でも覚めた目で読んでみるとどうも笑ってしまうところが多々ある。関連スレhttp://book.2ch.net/test/read.cgi/book/1035721261/
太宰治は後半明らかに笑わせにかかってる小説もあるし、というか『人間失格』のイメージが世間では強すぎるので暗そうな重そうなバイアスがかかってるのだろう、太宰はとんでもないユーモアをかもし出した作家だと思う。だけどそんな太宰でも『斜陽』中の没落貴族マダムが席を立ち「おかあさま、どちらへいかれるの」と尋ねられ、ただひとこと、「おしっこよ」と宣言するところで読者を笑わかせようと思っていたかと考えると、そうじゃない気がする。たぶん太宰は本気で没落貴族の様子を書こうとしてこういう発言になったのだろう。志賀直哉がこの貴族の言葉遣いで云々言っていたんだけど、もしかしたら「おしっこよ」と女性が言うことがそんなに下品じゃなかった時代なのかもしれないし。でも、晩年の『グッド・バイ』とか『美男子と煙草』とか、げらげらって笑いじゃないだけど、悲壮感漂う笑いなんだけど、笑わせようと言う意思を読み取ることはできると思う。
一方、志賀直哉はそんなことないと思う。でも、この人の小説には私小説って言い方もあったことだし自分がある程度モデルになってるんだろうけど、ろくでなしの主人公が闊歩する。これが内田百輭町田康のような確信犯ならいいんだけど、志賀直哉当人に読者を笑わせようという意思はないもんだと思う。そりゃ当時の読者は大家様の作品だからって荘厳に読んだかもしれないし、そうでなくても笑ったりはしないんだろうけど。でも、現代の読者から見てみれば、この人は笑われている。読者を笑わせているんじゃなくて、読者に笑われている、意図しないところで。そりゃ三島由紀夫にも言えることで、当人まったくの真面目に書いたつもりなんだろうけど、時代は流れこういった雅文臭溢れる小説は何かのギャグなんじゃないかと捉えられてしまうし、『豊饒の海』の終わり方なんて、ばんざーいなしよ、ってな感じでギャグだろう、これ、これだけ読ませといてよー。

ここで私が言いたいのは、作者が笑わせようと言う意図を秘めたかどうかということではなく、読者が笑ってしまう読みを繰り出してしまった理由を探ることだ。
作者は死んじゃってるし、まぁ作者が笑わせようとしたかどうかに関係なく、読者が笑えばそれは笑える小説だし、読者が笑わんかったらそれは笑えない小説なんだ。笑えないからってそれが駄目な小説ってわけではない、もちろん。笑わせようと意図された小説で読者が笑えなくとも、笑い以外の価値を読者が見出しちゃえばそれなりに価値があったと評価できるんじゃないか。
だから、このテクストは笑えるか、ってところを第一の価値基準として論ぜようって気持ちはさらさらない。なぜ読者はあるテクストに対して、笑いという読みの受容を表してしまったのかってことを考えていきたい。