釣りってマジっすか?

私が「2ちゃんねる」っていう言葉をブログで出した場合、それまで2ちゃんを読んでいた可能性は限りなく高かったろうにすれ、不確定要素でしかなかった。でも明確に「2ちゃんねる」に言及したことで、私の発言全てに「2ちゃんを見てる人」というバイアスがかかってくることとなる。
言い換えると、私には「2ちゃんねる」の知識があるということが読者なり受容者なりの前提知識となるわけだ。でも、ここで出てくる新たな要素が「知ったかぶり」だ。もしかすると私は「2ちゃんねる」のことを知ったかぶっているだけかもしれない。だからもし私の2ちゃん知識が知ったかだったときに、「2ちゃんねる」の知識を読者が解釈に影響させたら、それはちとピント外れになる。別に解釈そのものは自由だけども、私の意図なり私のスタンスなりを読み解こうとしている場合は、知ったかを見抜けなかったらピント外れとなってしまう。ここで問題となるのは私に対する読者の信頼度だろう。
つまり不確定要素が基本的に読書における読者の想像力を活かす解釈行為の営みだ、みたいに受容理論さんたちでは考えられてきたけれども、確定要素も実は不確定なものだというあったりまえのことも考えなきゃならんわけだ。これはどこまでネタなのだろう、深読みすればいいんだろう、釣りなんだろうか真性なんだろうか、ってなことまで頭を悩ませなければならない読者。一般的には語り手はウソつかないというスタンスで読まれるわけなのだけれども。