プロフィールとパラテクスト

「作者は何を考えているのだろう?」という意図をもたれて解釈される場合は、作者の情報があればある方がいい。というわけでプロフィールをはじめとしたパラテクストは重要になってくる。
ただ書かれてることを楽しんだり、自分なりに意味を考えるときには、作者の情報はあんまり必要じゃないようだ。だからプロフィール不要論は出てくるんだろう、特にネットじゃ。
さて、たとえば、私が1971年生まれか、1981年生まれか、1991年生まれかって考えるとわかりやすい。この文章を32歳が書いているか、22歳が書いているか、12歳が書いているかで解釈が受ける影響はがらりと変わるだろう。同じように、いくらジェンダルジェンダリングだのポストフェミニズムだの言ったって、私が男性か女性かってのも解釈に影響を与えることは否めない。もちろん気にしないよって主張する人もいるだろうけど、少なからず影響はするとみていいと思う。年齢や「性別」だけじゃなくてその他もろもろのことがあるだろう。タイトルだって強烈なパラテクストだ。もしこのblogのタイトルが「くたばれヴォネガットjr」だの「ヨシ子の介護三昧」だったりしたら、少しは読みに影響を与えるだろう。
つまり不確定要素が埋まれば埋まるほどテクストの発揮する拘束力は高まる。それをよしとする読書もあれば、別に必要としない読書があるわけだ。