第130回芥川賞選評 「文藝春秋」3月号

芥川賞の選評と言えば、宮本輝石原慎太郎のエキセントリックなコメントがたまらない醍醐味だ…と思っていたら、なんと今回の宮本輝金原ひとみ蛇にピアス』と綿矢りさ蹴りたい背中』を大絶賛だ! どうしちゃったの? 宮本輝
相も変わらず抽象的でよくわからない選評はイカしている。

(『蛇にピアス』に対して宮本輝の選評)
最初に読んだ時よりもディティールへの目線の言語化に秀逸なものを感じるとともに、読後に残る何かがいったい何なのかにも気づいた。それは「哀しみ」であった。作中の若者の世界が哀しいのではない。作品全体がある哀しみを抽象化している。そのような小説を書けるのは才能というしかない。私はそう思って「蛇にピアス」を受賞作に推した。

具体的に述べることをうまく避ける、こういうところにもさすが宮本輝という筆力が現れている! んだよ「ある哀しみ」って、「才能というしかない」って。
綿矢りさに関しても、

(『インストール』と『蹴りたい背中』のあいだに)
綿矢さんの世界は目をみはるほどに拡がっている。ディティールが拡がったという言い方が正しいかもしれない。それとともに文章力や構成力も身につけたのだ。驚くべき進歩である。

そりゃ枚数が制限されてるからかもしれないけれど、よくもここまで抽象的なコメントができるもんだなぁ、と宮本輝の文章力や構成力に驚くばかりだ。ディティールが拡がったという言い方が正しいかもしれない。
一方で石原慎太郎は相変わらずの頑固キャラを貫きとおしている。「青春」という言葉にひたすらこだわる作家・慎太郎、現代の「青春」の閉塞感に苦言を呈してやまない格好だ。『蛇にピアス』に言及して、「私には現代の若もののピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解できない」と理解できないってはっきり言っちゃう。
さて、金原ひとみを推しまくったらしい村上龍のコメントの締めのことばがふるっている。

これは余談だが、選考会の翌日、若い女性二人の受賞で出版不況が好転するのでは、というような不毛な新聞記事が目についた。当たり前のことだが現実の出版不況は構造的なもので若い作家二人の登場でどうにかなるものではない。

出版不況が好転するとか書いた新聞記者もなかなかなエキセントリックぶりだけど、村上龍もわざわざ選評という場を使ってでもこのことに言及しなければならないくらいに憤ったんだろうか。
芥川賞の性格を示してくれた池澤夏樹のコメント、

こういう作風の評価は分析ではなく好悪で決まってしまうから。

これは絲山秋子『海の仙人』へのコメントなんだけど、分析ではなく好悪で決まってしまうのは芥川賞自体に言えることです。池澤夏樹中村航の前作を挙げて「「夏休み」の路線でこの賞は取れないだろうが」といろいろと正直でいい。
古井由吉は受賞作の「暗さ」に注目、タイトル『蹴りたい背中』も喝采を叫ぶぐらいに絶賛している。黒井千次は候補作が4/5で一人称だということに言及する。またもやタイトル『蹴りたい背中』を絶賛するが、「この感性にはどこか関西風の生理がひそんでいそうな気がする」とまたよくわからないコメント。今回の選者の目玉は山田詠美ちゃん。エッセイ調で一番面白い文章だけども、よく理解できない。「(泣)」とか書いてくれるのでニュアンスはわかりやすいんだけど。三浦哲郎島本理生『生まれる森』を挙げて「作者の意図が知りたかった」とコメントを残し、やはり読者は作者の意図を求めるものなのかと思わせてくれる。『蹴りたい背中』の例の「ハッ。っていうこのスタンス」に憤慨しているのは愛嬌だ。高樹のぶ子は現代の若者とやらを「単純でストレートな強さに反応し感動する」とややしかめっつらしてみせるから、むかしの若者はさぞ人生の含蓄を携えたすばらしいものだったんだろと思いをはせた。