解釈と名作と感想と評価*1

あるテキストは読者の解釈に開かれている。とはいえその読者の解釈は無際限に自由なわけではなくて純粋にリベラルな読みは成立しようがない。というのも読者は社会通念、思想、習慣、言語などなどなどに意識的にしろ無意識的にしろ読みを縛られてしまうからだ。
そうはいっても実際にはさまざまな解釈が現に存在する。100%合致した解釈をすることはほとんどありえないと言っていい。もちろんその解釈は言語化されたものであって、読書瞬間に受ける印象こそは互いに照会しようもない。
しかしその多数の解釈のなかにでも共通する部分は存在する。そして解釈の次の段階、評価となるときにつまり面白い面白くないを判断するときにまた分岐は存在する。むしろこちらの分岐のほうが大きいズレを産むものなのかもしれない。しかし、だがしかしそれでも同じ作品を面白いと思う人がいることは事実。
多様な解釈のなかにある指向性。多様な評価のなかにある指向性。これはなぜどのように生まれるのか。これを探るためには読者だけではなく作品、それを生んだ作者、そしてそれを流布した編集・流通・販売を詳解しなければならない。
言語学畑のひとに言わせりゃ、なーにを研究することがあるか? 答えでてるじゃん。ってなことらしいのだけども。ハッ。
文学畑からでも、面白さは人それぞれだから研究しようがないできることとできないことをよく見定めたほうがベターじゃん! ってなことらしいのだけども。ハッ。
まずは、解釈にまつわる読者とその解釈を生む作品について、調べていきます。っと言いつつ4年が経ちました。オフコオォォーーーース!!