作者の意図

バルトが揶揄的に「作者の死」を宣言しても、まぁ実際は作者*1は死んでなんかいなかった。今でも読書の基本はその文章に何が書かれているか、何を意味しているか、つまり結局は作者の意図を探ることに集約する。
でも、作者の意図とは関係なく、書かれた文章にいろんな感情を持つことは確かだ。ある文章を読んで笑ったりむかついたり感心したりするのは作者の意図を読み取ろうとする態度とは別のところにある。
「作者の意図がわからない」ということが読書においてマイナス要素になるという面もあるようだ。うーん、やっぱりそちらがマジョリティ! というわけで、作者のプロフィールはあればあるほど読解の役に立つ(解釈の幅が狭まる→作者の意図に近づけるような気がする)ことになる。ここまで書くとさすがに「作者の意図」を求める読書態度にいや〜なうさん臭さを感じられるけど、まぁそりゃとりあえずほっとこう。じゃああたしもちゃんとしたプロフィール書こうかしら。加工かしら。
とはいえ私が古都ひかるや川村美咲好きだという情報が読書論記述の解釈に影響することは少ないと思うし、やっぱハーバーマスを見逃してはおけんよってな私の態度が知られたことで、浜千咲嬢をずっと応援していきます! という信念に基づいた記述の解釈に影響を与えるかときたら、そこまで与えないんじゃないか。
まぁプロフィールなんて必要ないって言い分もわかる。寒いこと書いてあったらへこむから、読んでるこちらが。でもプロフィールを読まないという選択もあるんだから、別にあったからってそこまでデメリットがあるとは思えない。メリットの方が大きいんじゃないか。
でも、でもだ。プロフィールがある、百の質問があるってだけでそのサイト管理人をちょっと敬遠するもしくは侮蔑する読者もいることは確かだ。読む読まない以前に、あるってだけで読者に影響を与える。そういう読者を軽率だ短絡的だって批判するわけにはいかない。それも読者の正当な反応であることにはかわりないからだ。

*1:ここで「作者」は作者本人じゃなくて読者が想像するあたかも実在するように思われてる「作者」