読むそのものの周辺にあること

舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日*1を読み終わる。上下巻で1000ページ近く、面白さと引き換えに体力と気力が費やされた。安穏と過ごす私の脳みそは叩き起こされる。能力のインフレの後にあるのは頭脳戦かゴリ押しか。自分とそれ以外の時間と空間に空想を巡らせた人に勧めます。


日々の疑問はライフワーク。ある「面白さ」を人に伝えるためにはどうすればいいんだろう。その前に、自分自身でその「面白さ」が何が要因で何故面白いと感じるのか何となくでも気付けるものなんだろうか、自分でも納得できるように。そもそも「面白い」という感情は何なのだろう。


日々の疑問はライフワーク。「名作」とはどのように生まれるのだろう。単純なその時代の売上や評判だけではないことは何となく分かる。じゃあ後世に何かしらの評価が加えられて「名作」として伝播されるのだろう。時代時代で「名作」というものが変遷してるんじゃないか、というのも何となく思いつける。歴史的意義に基づいた文学史、これも時代で動く可能性は高いけれど、とは別にイデオロギーとしてある「名作」。「名作」という概念自体も移ろっているんだろうなあ。
ある作者の「プロフィール」も時代を経て変遷しているかもしれない。ある作者の人生の中から何をピックアップするのか。のちのち新発見とか新説とかで作者の人生は追加される。ピックアップする「作者」の意図で作者の人生はプロフィールに編まれる。人生はプロフィールに編集される。同じように、作者の「代表作」も誰かが決めている。誰かが唯一神なんかじゃないし、それこそ売上だのの客観的指標だけに縛れるわけじゃないから、「代表作」もイデオロギーの一つだ。例えば太宰治の代表作といえば『人間失格』か『走れメロス』かあとは何だろう、出てきて『津軽』辺りなのかなあ。僕は『グッド・バイ』がダントツで好きなんだけど、でも「代表作」かと訊かれたら答えに詰まる。たぶんそうじゃないと返す。「代表作」とは何だろう。「代表作」とはどのように生まれて、広い読者のムードになるんだろう。教科書は「代表作」「名作」を作るのかもしれない。「代表作」「名作」だから教科書に載るのかな。ニワトリと卵のようで、これにははっきり答えが出せそうな気がする。教科書を逆上り続けたらたどり着けないかな。


ディスコ探偵水曜日』の前編半ばで、密室殺人の推理がまず披露される。だけど読者はそれが長い長い小説の前半であることを少なくとも本の厚みで分かる。だから多分その推理は間違っているか、当たっているならその密室殺人とは別の事件が起こり残りのページを満たすはずだ、と思う。もしかしたら本当に事件は解決して本編は終わり、本編の四倍以上のあとがきが延々続く可能性も無いとは言えないが無視できるぐらいにはありえないだろう。本の厚ささえ読者の解釈には影響するんだ。じゃあ、いわゆる「名作」とかを読書するうえでも、そんな周辺的要素も影響するとは言えないかな。どう影響するのかは日々の疑問。いまの『人間失格』を読む時に頭に浮かべるのは松山ケンイチデスノート作画の小畑健の絵柄かもしれない。