読書論の問い立て

さあ卒論書こっかなー、というところで痛感したんだけど、読書論ってもんはとにかく問いがたてづらい。いや、単に問いを立てるだけなら簡単なんだけど有効な問い立てとなると途端に窓口を閉ざす。
まず、読書論という確立されたジャンルがないのが一因に挙げられるだろう。読書論と呼ばれるものにタッチしてくるのは日本文学などの文学研究はもとより、解釈学をはじめとした哲学、美学、言語学認知心理学、などなどのさまざまなジャンルだ。これらに読書論は語られる。つまりは読書論というものは、方法であるということが考えられる。方法に対して問い立てすることにより何が答えとして導き出されるか。それは新たな問いだ。だからといってこれは決して無駄なことじゃない。むしろ方法としての読書論の射程を広げる契機となる。どうせ明確な定義もされてない(避けられてる)んだから射程は広げるだけ広がっていく。これはとりもなおさず、「解釈は自由だ」という最終兵器テーゼと呼応する。開かれた解釈とはいえ全ての人が、いや一人とも「自由な」解釈にはいきつけまい。開かれたのは「可能性」だけであって全ての解釈が「自由に」できるわけじゃないんだ。同じように読書論の射程も可能無限的匂いは出しても「自由に」ぼくたちが標準を定められるわけじゃない。かくしてイーザーの期待の地平の概念は輝いてくる。読書論の地平をわれわれはきりひら
いていくのだ。


…つーかこれじゃ、メタ読書論だなあ。まあ、いいか。